”逃げる”に逃げるな! その1
*引用のイタリック体も含め、太字はすべて筆者によるものです。
自称津浪研究家の私は、その後の復興の様子が気になり、2023年12月、8年ぶりに宮古から始めて南三陸、気仙沼など、三陸各地を回ってきたのでした。さすがに震災から13年経ち、日本中の重機やダンプを集めたかのような工事現場風景は消えて、落ち着いた日常がそこにはありました。その一方で目立つのが、震災伝承施設が各地に造られていることで、自治体の横並び意識もあるのか、いや、それだけ今度の大災害を風化させてはならないという思いの強さ、また2度とこのようなことがあってはならないという覚悟の表れでもあるのでしょう。
ただ、実際に今度また津波が来ても心配がないのかと言うと、場所こそ内陸側へと移っているとか、かさ上げされているとか、防潮堤や水門が築かれたとか、色々手は打たれているのだけれど、どれも巨大津波の侵入を防ぎ切れるものではなく、その時にはやはり、高台、或は避難ビルとか、タワー等に避難する、となっているのでした。
ああ、まだ逃げるということと、縁が切れてないのかと私は、心底から失望したのでした。抜本的な津波対抗策を導入しようとぜず、“逃げる”に逃げている!
勿論、復興への取り組みは、遅いとか批判されながらも、各市各町に於いて、国(予算)に縛られ前例踏襲の手法の中で、懸命になされたことは、間違いありません。ただかさ上げにしても色々あって手間取り、費用にも限りあれば、ほぼ大体、5.6m止まり。防潮堤にしても総延長400km、約1兆円かけ、高さ最大15mのものを築きながら、絶対安全とはならず、所によっては護られている恰好なのが、住民が移転した後の危険指定区域というチグハグさ。このように土木偏重の従来からのお定まりの対策だけではどうしてもそうなる、限界があることは明らかで、。そのヅケは、結局避難のリスクを負うという形で、住民に回されることになった。
そういう相変わらずの実態があってのことと思われるのですが、地震や洪水、土砂災害が起きる度、また震災の記念日となると、政府、自治体の関係者は勿論、防災問題識者から報道機関までが力を入れてキャンペーンに努めるのが、“逃げる”ことの重要性。小中学校などでも、防災教育というので、災害の怖さを印象づけ、その時は、逃げるのですよ、いち早く逃げなければいけないのですよ、と刷り込みを図り、避難訓練にも力を入れる。
このように、実際は曲折激しい隘路であっても、国をあげて逃げることの大切さを説き、その全き有効性を信じて、つゆ疑わない口調は、まるで“逃げる教”なる新興宗教があって、その教義をみなが唱えているようです。
当然じゃないかと、憤然とされる方もおられるに違いない。ただ、逃げる、ということは、特に津波の場合、これぞ助かるための最善手とされて教化が図られるのですが、実際はそう容易なことではないですよ、ということを言いたいのです。
誰しも自分に限っては大丈夫、逃げ損なうなんてない、と思っているのですが、いざ実際の場面になると、いかに困難か、見込み違いが起こるか、何よりこの度の東日本大震災の1万9千人超という、死者・行方不明者の数が物語っています。以下、その盲点とも言うべきものを、取り上げてみたいと思います。
⑴避難弱者 逃げるが一番と言う人に、先ず申し上げたいのが、障害者初め、高齢者、病者、妊産婦、乳幼児など、避難弱者とも呼ばれる人がどこにも少なからずいる、これらの人たちのことは、どうするのですか、ということです。当然、誰か周りの人が面倒をみるべき、という答えになりますでしょうか。
しかし津波常襲の三陸には、「津波でんでんこ」という言葉が伝えられております。逃げるに人のことなど構わず、もう自分だけ、必死で逃げよ、という教えです。互いに心配し合う中に逃げ遅れ、一家全滅するより、一人でも生き残れば家が絶えることはないという切迫した事情もあったかと思われますが、弱者のことは、どう考えられてきたのか。当然切り捨て?
やはり「でんでんこ」ではあっても、その時には誰がこれら弱者の介助をするかを日頃から考え、訓練もしておくぐらいのことは、あっていいだろうと思います。そうしていたとしても、助けつつ、助けられつつの避難の路は、急坂に階段、倒壊物等ありなら、紆余曲折の難路と化し、困難を極めるであろうことは容易に想像できます。
⑵震度と津波 地震の揺れが激しければ、どんな悠長な人でもこれは大変、巨大津波が来ると、避難を始めるでしょうが、揺れがそんなに強くなかった場合は、どうでしょうか。明治29年の明治三陸地震津波では、地震による揺れは最大でも震度4程度でした。それではどうしても津波を連想しないし、逃げることにつながらない。しかし津波は来た、それも高さは最大で38.2m(岩手県三陸町綾里)にも達し、津波による死者約22,000人という我が国津波災害史上最大の被害が生じたのでした。
⑶深夜の津波 津波は、昼間来るとは限らない、時には寝入りばなを狙ったように来ることもあります。昭和8年3月3日の昭和三陸津波は、午前2時半に襲来しました。この時は揺れが大きかった為、真夜中で混乱しながらも逃げ出した人が多かったからでしょう、死者・行方不明者は明治の時より少なかった。とは言え3064人を数え、岩手県の田老では人口の4割以上に当たる792人もの犠牲者を出しました。やはり寝起きの朦朧とした頭では、寒く、真っ暗い中に寝間着姿のまま飛び出してゆくことを厭う気持ちも働いたかと思われ、田老の場合特に地形的特性から、遅れが致命的なことにつながったものと解されます。
その2につづく
《逃げるに逃げるな》全く同感です。
津波に対応できる住居ビルが開発されているとのことですが、ならば、それをこのブログでも公表
されて、どういうビルなのかを、説明されないと、公の皆様に理解できないかと思いますので、是非お示し下さい!
有難いお言葉です。なかなか当然のことでも、世の常識に反するのか、理解されにくいことなので、一人でも同感と言って下さる方がおられた、ということには、勇気づけられます。
津浪に耐えられるビルについては、近日中に、投稿の予定です。しばらくお待ちください。