建物を工夫する~津波被害根絶への道
*引用のイタリック体も含め、太字はすべて、筆者によるものです
初めに
2012年、東日本大震災の翌年に、1冊の本が再刊されました。戦時中の昭和18年に出された、山口弥一郎という民俗学・地理学者の『津波と村』です。
山口は生涯を三陸の津波被害研究に捧げ、昭和8年の津波の2年後、33歳から集落を廻っては古老の許を訪ね、明治と昭和と、2度にわたる津波がどれほどの惨事をもたらしたか、高台移転とかの対策は取られたか、その後どうなったかを丹念に聞いて回ったのです。これら過酷な地に生きる人たちに、二度と傷ましい目に遇わせたくないという強い思いにも支えられた研究でした。しかしその深まりと共に山口は、「我々が不思議に思うのは、これだけの惨害に遭いながら、どうして村を再びその被害地に建てたかである」と、不可解な思いに捉えられるようになります。どうしてもっと秩序だった避難方法を講じてなかったかとも記します。「『何度たたかれても、このざまか』といいたげなほど、災害に対する無防備状態がみられるのは残念でならない。」
この嘆きを受け継ぐかのように、『津波と村』を再び世に出すべく動いた(この本は、毎日新聞の書評欄でも大きく取り上げられた)一人である石井正巳氏(国文学、民俗学研究者)は、復刊理由を述べるところで、こう書いています。
そうした調査研究を通して、山口は高台への移住が絶対安全であることを何度も 強調する。しかし実際には商業都市的な地域では不可能であるばかりでなく、一旦は高台に移住した人が頻繁に原地復帰してしまう事態に心を痛めた。(中略)今回の大津波で大きな被害を受けた集落には、かつてそのようなかたちで復興した場所が多かった筈である。(中略)今回の被災者も、多くが原地での復興を望んでいる話を聞く。人々の気持ちはまったく変わっていないことがわかる。
この本を読まれて津波「常習地(山口の用語)」に対し何か声をかけたくても、暗然としてしまう人が多いのではという気がします。私自身も、山口が「この津波の被害の余りにも多く支払われた犠牲に対しても、よく研究も調査も遂げてみて、正しい避難方法を訓練しておかねばならぬと、つくづくと思う。」と述べる箇所を読んで、ああ、この津波被害研究の第一人者にしてこれか、我が厭う“逃げる教”の、ひょっとして教祖様であったかと暗澹たる思いに捉えられたのでした。
この今になって再刊される程の名著も、一学者が生涯賭けた研究の貴い成果には違いないものだとしても、救いのない本。何かより良い復興への手がかりを求めてこの本を読んでも知らされるのは、どれほどの津波被害があり、移転とかの対策が講じられても、結局は元の木阿弥に落ち込んでしまう。漁業者など特に、津波を恐れて浜を離れたのでは生活していけない、というような経済的理由、更には先祖からの土地を慕う民俗学的理由とかもあったにしても、その性懲りのない歴史であり、津波被害根絶の困難さ、というのですから、「困ったものだ」という唸りしか出てきません。
ところがです、年齢を重ねてもなお防災対策に打ち込んでいた山口弥一郎が、60歳を過ぎて出してきた訴えは、違っていました。山口はこの本を著した後も、新聞などに寄稿をつづけるのですが、昭和35年のチリ地震津波の二年後、「津波災害対策論(再刊本に所収)」という論を河北新報に寄せ、こう述べているのです。
村を動かすことが容易でないなら、鉄筋コンクリートの建築技術も進んでいるから、防浪建築を、政府の補助か何かで建ててみたい。大田名部などは業火と二重災害を受けているから、この種の建築を試作してみたい。中央都市ばかり鉄筋アパートを建てないで、このような災害常習地の防災対策に、のどもと過ぎても建てる熱意を失わない人はいないものであろうか。
生涯津波常習地の被害とその克服の研究に打ち込み、人々の、津波のもたらす地獄を忘れたかのような行き方に困惑しながらも、深い思いやりを持ちつづけた山口弥一郎。その人間味あふれる学者が、長く持論にしてきた集落高台移転の不可能性を悟り、ついにたどり着いた境地がここだった、と言っていいのかと思います。
石井正巳氏も記すように、人々の原地復興への思いが動かしがたいものであるなら、津波による浸水を前提に対策を考え、大津波に襲われても平気な「防浪建築」、すなわち「鉄筋コンクリートの建築技術」をフルに用いたビルなど、もう決して逃げる必要のないものに替えてゆく必要があるのではないでしょうか。
河川の場合
これ迄はどんな大水が出ても決して壊れないような「スーパー(400年後に完成するという超幅広な)」堤防の整備が急がれてきましたが、気候変動の進展により堤防の限界を超える豪雨が稀ではなくなったことで考えを変えざるを得ず、その時には、上流で田んぼなどに溢れさせるとか、また溢れた水を溜めることのできる施設を造るとか、流域全体での、溢れることも許容しての対策が考えられるようになりました。堤防だけに頼る虚しさを知ったという点で、進化には違いありません。
しかしながら「スーパー」程ではないにしても、規模壮大でいかにも土木事業のそれらよりも、多少かさ上げした土地に、高床構造(ピロティ方式)による住宅の建設を推進した方が、確実、迅速に安全が図れるように思われます。住宅とは違いますが、佐賀県 嬉野市 塩田中学校では洪水被害の惧れのあった土地に建てる際に、校舎を2.6m高くした高床構造(ピロティ方式)にし、またグラウンドより80cm中庭を低くすることで、貯水機能を持たせた、という極めて画期的とも言えることを行っています。
防浪建築の歴史
山口弥一郎が口にした「防浪建築」という考え。津波被害のなくならないことに心を痛める者なら、きっと最後は考えが行くであろう、津波にも耐えて住民の命と財産、暮らしを守る力を持ったビル。「鉄筋コンクリートの建築技術も進んでいる」近現代なら、誰でも考えつきそうに思えるのですが、過去を見渡してみても、もはや埋もれてしまっているのでしょうか、見つけ出せないのです。しかし今の時代であれば、ビルを手掛ける会社など、ゼネコンから中小まで、数え切れない程あり、また、名建築家と言われる方も数多くおられるのだからと思うのですが、全く聞えてきません。津波にも耐え得るビルの設計を試みた建設関係者が皆無だったとはとても思えないので、或は何らかの理由で、世に発表するまでには至らなかったということでしょうか。それも、謎です。
津波対策ビルの出現
こうして見てきますと、どうも耐火建築、耐震建築はあっても、耐波建築はない、今もないし、歴史的にもない、ということになります。一体どうして?
てんからその種のビルは採算がとれないと決めつけているのか。……それともひょっとして、そもそもあの巨大津波に建物で対抗するなど、思いも寄らないこと?
いやいや、現在の高度化した建築技術を持ってしてあり得ることとも思えません。全く不思議、としか言いようがありません。
宮城県南三陸町にある、数少ない民間震災遺構施設の1つ、高野会館。元々は結婚式場で、海岸から200mという所にあり、多少頑丈な造りにした他は津波を考えた建て方はなされてなかった。それでは建物内部への浸水は防げるものではありませんでしたが、建物自体は持ちこたえ、近隣の人が逃げ込んで来たのを、従業員が屋上へと導き、合わせて327名と犬2匹の命が助かりました。
このように4階程度の普通のビルでも、津波の際、頼りになる。そこから、津波被害根絶を託せるビル(工夫された構造のハイブリッドビル)迄の距離はない、もう目の前だと言っていい。
津浪常襲の地である三陸や、南海トラフ地震による被災の予想される土地の建物というものが津波の強大な圧力、漂流物の衝突に耐え、浸水もシャットアウトできる構造になっているとするなら、もうどこにも逃げる必要なく、ここにいれば安心、危険な目に遇わずに済むようになる、というのはすぐに思いつく筈のこと。決して難しい話ではありません。
これ程のヒントが与えられていながら、災害に強い国づくりに邁進している筈の国交省にひらめくものはないのでしょうか。これまで何度もの耐震基準改正で地震に耐える建物への転換を推進してきながら、一方津波に対しては凡そ無頓着、無策。どうして津波被害の避けられぬ地域には耐波基準を設けて、これからは決して津波にひとたまりもない建物など、建ててはならぬと規制を加えて行かないのか、理解に苦しみます。規制をするだけでなく、耐波建築を促す補助金を用意するとかして、津波被害根絶につながる建築を普及させるよう持って行くこともできる筈です。
世間の認識もそうだし、なにより国の中枢機構すらその程度のものですから、津波に耐える建物など、夢のまた夢、ある筈のないもの。そのような日本という国で、恐らくは自社の利益よりは、この度の悲惨極まりない津波被害に促されてのことだと思われるのですが、ようやく耐震、耐波のビルが発表されたのでした。
震災から1年半を経た2012年10月27日の日本経済新聞。
20メートル津波に耐えるビル
清水建設 楕円の外壁で二重構造
震災直後から繰り返し放映される、津波が去った後の街の光景。そのすべてが流失させられてしまった無残な街の中に、3階建て程度のビルであったのですが、窓からの浸水に中はみな持って行かれながら、ビル本体はちゃんと残っている!
それを見てからというもの、津波に耐えるビルこそがこの世を救う、として、断面が軍艦型をした10階建てビル(軍艦ビル)を思いつき、無謀にも報道機関などに送ってきた、そうしながらも、どこか建設会社で開発してくれないかと、願いつづけた私の思いが、ようやく酬いられた瞬間でした。上に記した見出しに続く記事を以下に転載します。
清水建設は26日、震度7級の地震と高さ20㍍の津波に耐える津波対策ビルを開発したと発表した。楕円形の外壁で波の力を受け流しつつ、内部に独立した建物をつくる二重構造で浸水を防ぐ。大津波襲来時でも施設機能を維持する必要がある沿岸部の自治体や医療機関などに提案する。/ 津波対策ビル「アーチシェルター」は楕円形の外壁にバルコニーを設ける。張り出したバルコニーで、船などの津波漂流物が衝突しても外壁そのものを傷めにくくする。津波により大きな力がかかる1階部分は壁のない柱だけの構造にして水を素通りさせる仕組み。/ さらに外壁と建物を独立させることで部屋まで浸水しないという。外壁内部につくる独立した建物には免震装置を組み込んで、震度7級の地震に耐えるようにする。/緊急時には施設利用者と近隣住民を合計2400人収容できる。屋上に備えた発電機や貯水槽などを用いて3日間施設機能を維持する。/基本プランは地上7階建て。建設費は条件にもよるが同規模の建物に比べ1・5~2倍で、建築面積3・3平方㍍あたり150万円程度という。
基本的な設計構想は同じでも、アイデアだけの私の軍艦ビルとは比較にも何にもならない綿密な強度計算の尽されたビルです。ただ私のビルが下層階は庁舎や事業所,医院等に当てるとしても5階より上は住宅としているのに対し「アーチシェルター」では、住空間としての印象を避けるようにしており、記事にあるように「施設利用者」としています。基本的にオフィスビルなのであり、マンションではないということなのですが、強大な津波にも安心な設計がなされているのですからこれをマンションに設計変更できない理由は見つけにくく、建設費にしても、通常のオフィスビルとマンションの建設費とに大きな開きはない現状に照らして、そんなに違ってくるものではない、と見てもいいかと思います。
それより肝心な点、このビルの実力――これ迄、津波の度、繰り返し常襲の地で大きな被害を出してきたのを、本当に終りにできるのか――その辺のことは発表の記事にも出ておりますし、これ以上建築には素人の私が云々しますより、後はネットなどでも見られる、このビルについての清水建設の広報資料に役を引き継ぐこととしたいと思います。
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津波対策研究家を自称するトロッポ氏の主張のハイライトとも言うべき提言ですね。確かにこのような建物ならば逃げる必要は無くなります。氏の言うとおり国はこのような建物を普及させる方向で施策をすすめるべきです。とりあえず自治体庁舎や介護施設などから実施してもらいたいものです。
よく理解していただいていると思います。この度ご提言し、ご検討をお願いしているアーチシェルタービルは、津波浸水区域と分っていても動けない自治体、企業の建物として先ず採用して欲しいものです。とはいえ、1自治体、1企業(ディベロッパー含め)単独では、そう簡単には踏み切れないと思いますので、そこは、補助金というもの、様々な、津波に比べれば深刻の程度低いものにも出されており、ここはどうしても国交省に働きかけ、これを機に津波に強いビルに対する理解が深まるよう持って行けたら、日本の災害対策も変ってゆくのではと思います。